ショパンの生涯
Chopin's Piano Life
1810-1849
ショパンの生涯
目次
ショパンの生涯
ショパン(0歳〜19歳)
1810年(0歳)
1810年3月1日(2月22日など諸説あり)、ポーランド・ワルシャワ郊外(ジェラゾヴァ・ヴォラ)に生まれる
生後間もなくポーランドの首都ワルシャワへ引っ越す(サキス宮殿の庭園、7ヶ月の頃)
父はフランス人(教育者、フルートやヴァイオリンを嗜む)、母はポーランド人(ピアノを弾く)
両親ともに音楽を愛する家庭、姉1人、妹2人
長女:ルドヴィカ、長男:フレデリック・フランソワ・ショパン、次女:イザベラ、三女:エミリア(14歳で夭折、結核)
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1816年(6歳)
以前から姉ルドヴィカがショパンにピアノを教えていた
ボヘミア出身の音楽家、ジヴニーによるピアノ指導が始まる
1817年(7歳)
ジヴニーによるピアノ指導(優しい先生)
バッハ、モーツァルト、ハイドン、フンメルなどの作品に触れる
現存する最初の作品 ポロネーズ ト短調 を作曲
ポロネーズ 変ロ長調 を作曲
カジミェシュ宮殿の一画に移動
1818年(8歳)
ジヴニーによるピアノ指導
初めての公開演奏、神童と呼ばれる
1819年(9歳)
ジヴニーによるピアノ指導
1820年(10歳)
ジヴニーによるピアノ指導
1821年(11歳)
ジヴニーによるピアノ指導
ロシアの皇帝アレクサンドル1世の御前で演奏
自筆譜の現存する最古の作品 ポロネーズ第13番 変イ長調(ジヴニーに献呈)
1822年(12歳)
ジヴニーによるピアノ指導
ポーランドの作曲家、音楽教育家のユゼフ・エルスネルに出会う
1823年(13歳)
ジヴニーによるピアノ指導
エルスネルより音楽理論などを学ぶ
ワルシャワ中等学校に入学
フォンタナ(後にショパンの遺作を出版)と出会う
1824年(14歳)
ワルシャワ中等学校に通う
1825年(15歳)
演奏会でイグナーツ・モシェレスの曲を弾く
ワルシャワ中等学校を卒業
1826年(16歳)
ワルシャワ音楽院に入学
1827年(17歳)
クラシンスキ宮殿南館に移り住む(〜1830)
コントルダンスを作曲
ラ・チ・ダレム変奏曲(モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」の「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2
)を作曲
1828年(18歳)
ベルリンに滞在(2週間)、(メンデルスゾーンと出会う)
序奏と華麗なるポロネーズ 作品3
ピアノソナタ第1番 ハ短調 作品4(エルスネルに献呈)
ポーランド民謡による幻想曲 イ長調 作品13
1829年(19歳)
ワルシャワ音楽院を首席で卒業
フンメルと出会う
ウィーンで演奏会を開く
ピアノ三重奏 ト短調
コンスタンティア・グラドコフスカに対する初恋が表現されているというピアノ協奏曲 第2番 作品21を書き始める(翌年に完成)
ショパン(20歳〜29歳)
1830年(20歳)
ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11を初演
「シンデレラ」の主題による変奏曲 ホ長調
エチュードの作曲に着手
11月蜂起が起こる
ワルシャワを去り、ウィーンを経てフランス・パリへ向かう
1831年(21歳)
ウィーンでバラード第1番ト短調 作品23の作曲に着手(1835年パリで完成する)
ウィーンからパリへ赴く途上で蜂起が失敗に終わったことを知る
エチュード作品10第12曲「革命」を作曲(ロシア軍がワルシャワに侵入したという知らせを聞いたショパンの憤慨の表れ)
9月、パリに到着
1832年(22歳)
パリで初めての演奏会を開く
リストとの交友が始まる
1833年(23歳)
華麗なる大円舞曲 変ホ長調 作品18を作曲
1834年(24歳)
即興曲 第4番 嬰ハ短調 作品66を作曲(発表せず楽譜箱にしまい、ショパンの死後フォンタナにより「幻想即興曲」と名付けられ発表される)
1835年(25歳)
カールスバートで生涯最後となる両親との再会を果たす
ワルシャワで親交のあったポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵一家に会う、娘マリア16歳
ワルツ変イ長調作品69-1「告別」を作曲、「マリー嬢のために、ドレスデン1835年9月」と楽譜に記載
1836年(26歳)
1831年から着手していた、バラード 第1番 ト短調 作品23を出版
マリアに求婚し、マリアも受け入れる
ジョルジュ・サンドに出会う(リストの紹介)
マリアとの結婚はショパンの健康状態の悪化などを理由に破談
1837年(27歳)
ピアノソナタ 第2番 第3楽章「葬送行進曲」
スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
ヘクサメロン変奏曲 第6変奏 ホ長調
1838年(28歳)
ポーランドに対する愛国心の表れである、ポロネーズ第3番 イ長調 作品53「軍隊ポロネーズ」作曲
サンドとの交際が始まり、2人はマヨルカ島に滞在
1839年(29歳)
マヨルカ島ではショパンの結核が悪化
24の前奏曲が完成、雨だれのプレリュードが完成
バラード第2番、スケルツォ第3番などに着手
夏はサンドのノアンの別荘で過ごす
ショパン(30歳〜39歳)
1840年(30歳)
冬はパリでサンドとともに過ごす
1841年(31歳)
コンサートが成功
プレリュード 嬰ハ短調 作品45
(マリア結婚)
1842年(32歳)
バラード第4番ヘ短調作品52を作曲
ポロネーズ第6番変イ長調作品53「英雄ポロネーズ」作曲
1843年(33歳)
子守歌変ニ長調
1844年(34歳)
父、逝去(ワルシャワにて、73歳)
インフルエンザにかかる
1845年(35歳)
バルカローレ(舟歌)嬰ヘ長調 作品60に着手
1846年(36歳)
バルカローレ(舟歌)嬰ヘ長調 作品60
サンドの飼っている小犬が尻尾を振りながら飛び跳ねる様子をヒントにワルツ第6番変ニ長調作品64-1「小犬のワルツ」を作曲
ワルツ第7番 嬰ハ短調
1847年(37歳)
ジョルジュ・サンドと別れる
1848年(38歳)
イギリスへ演奏旅行
パリで最後の演奏会
1849年(39歳)
結核の病
10月17日、姉ルトヴィカに看取られ永眠
このページは、サイト運営者の所有するCDのブックレット(ライナーノーツ)や、ウィキペディアのフレデリック・ショパンの項目等を参考に作成しました。
ショパンの生涯についての情報には諸説あり、またフランス語やポーランド語から日本語への表記の仕方も幾通りかあります。
記載した情報は今後も精査し随時加筆修正してまいります。